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都合のいい孫、墓参りへ行く。

体調が悪かった、37℃という病気とも言い難い微熱を抱え込んで、二度寝に入った平日の朝。
そのあとお彼岸の花と線香を買いに行くためフラフラと家を後にした。

人生の過渡期

最近は体調の優れない日が多い、季節の変わり目もあるのだろうが、なにより今自分の人生に大きな過渡期がやってきているのだ。 そのせいで精神的に疲れ、免疫が下がり、ココぞとばかりに身体を蝕まれている。

人生の過渡期。

自分でも信じられないくらいの過渡期を迎えている上に、今宵41歳で本厄という疫病神が重く心にのしかかっている。

そんなメンタルの状態が続いている毎日で、当然心地よい夢を見る日はない、リアルとフィクションの間のような世界でいつも誰かに追いかけられているような夢ばかり見ている、職場のトップが追いかけてきて捕まる寸前でとっさに回し蹴りをした瞬間、部屋の壁を思いっきり蹴飛ばした日もある。

気になる夢

そんな冴えない夢が続いている中で、先日少しだけ気になる夢を見た。

亡くなった祖父(母方)がこちらをずっと見て少し微笑む、そして同じく亡くなった叔父がどこか知らない家の中を案内してくれている、次のシーンで山の中にある厳重に囲われたフェンスの中にある墓に、はしごを使って墓石に触ろうとしている自分がいる。

次の瞬間目が覚めると、早すぎる鼓動と自分が流した涙に気がついて、暫くの間(多分10分くらい)天井を見つめながらさっき見ていた夢の記憶を追っていた。

『なんだったのだろう…あれは…』

そう思っていた。

18の時の夢

昔の記憶がふと蘇る、18の時に見た夢で、祖父(父方)がこちらを見ている、何かものすごい勢いで僕に喋りかけているのだ、その形相は見たこともないくらい怒っていて、早口で何かを言っているのだが聞き取ることはできなかった、その数日後に僕はバイクで大事故を起こしたのだ。

日頃からスピリチュアルな話は嫌いではないがブログに綴るとなんとも胡散臭いから、書くことはあまりなかったが、今回見た夢も以前と同じように何か伝えたいことがあるような気がしてならなかったのだ。

多分呼ばれてる

『墓へ行こう…行かなくちゃいけない気がする…』

昔から人にも映画にも、マンガやドラマにだって感化される自分はついに自分の夢にまで支配されようとしているのか…

微熱の身体を叩き起こして、ドラッグストアへ向かい、お彼岸の花を4束、線香とライターを買った。

自ら進んで墓参りに行くことなんて、恥ずかしい話だが生まれてこの方やったことがない。
そんな人間が微熱を抱えながら花と線香を持って墓参りに行こうとしているのだ、もはや狂っているとしか思えない。

ちょっと信じられない心情になる

それぞれの墓へ行き、水を汲み、墓石を磨き、無心で雑草を刈り、買ってきた花を供え、線香に火をつける。 こんな時映画やマンガなら祖父母や叔父が半透明で出てきたり、人生の過渡期に立っている僕にエコーのかかった声でありがたい言葉でもかけてくれたりするんだろうけど、まぁあるはずがない。

あるはずがないんだけど、少しだけ不思議なことは起きるもので、どちらの墓でも1匹のアゲハチョウが僕の周りをずっと飛んでいるのだ、逃げる様子もなくものすごく近くでヒラヒラと周回している、それを見た瞬間に抑え込んでいた何かが一気に溢れ出てきた。

祖父のような教育者になりたかったけれど、それを諦めないといけないほど心が折れてしまったこと、自分の中で教育者としての覚悟が浅かったのかもしれないという情けなさ、40にもなって汚い大人の世界を目の当たりにして自分も同じくらい汚い人間になっていくような気がしていること、今心から応援している人の病気が全部なかったことになって欲しいと思ったり、学生を守ろうと必死で戦ってきたのに自分の正義がなんだったのかがわからなくなってしまったこと、汚い人間に自分の価値が委ねらている屈辱、自分の市場価値に自信がないこと、大好きな現場の人達を裏切ってしまうこと……

自分の私利私欲のためじゃなく、誰かのために必死になってここまで来たこと、誰かを安心させるために別に偉くもないけど安定した地位を築いてきたこと、『誰かのために』を全部自分で決めてきたはずなのに、もう心の中が酷いくらいにグチャグチャになってしまっている。

恥ずかしい話だが墓の前で涙が止まらず、しばらくそこから離れられなかった。

しばらくして

『胸につかえていた何かが取れる』とはよく言うが、本当にそれだと思った。

それとほぼ同時に心の中の足元にあるそれを拾い上げた、まるでいつもそこに落ちていたキレイな小石にまったく気が付かなかったみたいに。

『自分の道を、自分のために歩けばいい』

拾い上げたのは、他の人もみんな僕にそうアドバイスしてくれていたのに、すぐそこに落ちていたのに向き合いもしなかった言葉だった。

誰かのためにというのは本当に思っていたことだが、それは自信のない自分の一つの言い訳でもあったのかもしれない、誰かのためにって言っていれば誰も責めたりしないし、怒られることもない。

けどもう自分の道を、自分のために歩いてもいいのかもしれない、そうしたとしても誰からも責められることもない、一種の強迫観念にずっと囚われていたような自分に気がついた。

ちゃんと拾い上げて向き合う必要がある

今の自分に必要なことは足元に落ちていた、そんなところだろうか。

アゲハチョウは二人の祖父だったのか祖母だったのかそれとも叔父だったのか、お彼岸で備えられた花の匂いに吸い寄せられたただの蝶なのか…わからないけれど、きっとなにか意味があることだったと思うことにしている。


“自分のためにある道” どうやって歩いて行こう、人生の折り返し地点。

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