記事を書くことにチキンな私
実はこの記事を書き始めたのは今から2年ほど前、書いては直しを繰り返し『これはおかしい表現なのか……』とか『こんなこと書いたら怒られるんじゃないか』とか…とにかく色んなことにチキンになりながら2年かけて公開する記事です(笑)←どんだけ重いんだ
子育てにチキンな2児の父親
このお話は、日々『ちゃんと育って欲しい』と、毎日懸命に子育てと向き合う私を含めた世の中のパパ・ママにチキンな父親の悩みを打ち明けて共感を得ようとしているチキンなお話です。
私もまだ35歳2児の父、子育てに振り回されっぱなしで……もともと気が弱いお父さんなので偉そうなモノでもなんでもありません(笑)
ただここに今の時点での気持ちを書き残して、いつか子供が巣立った時、結果として35歳の時の子育てに対する思いが正しかったのかどうかを見つめ直すためのモノでもあります。
誤解を招く考察もあるかもしれませんが、温かい目で読んでいただけるとありがたいです(笑)
自分の子育てに対する不安と葛藤
昔テレビ番組でどこかの評論家が
『父親が子供を育てるのは7歳まではほとんどなんの影響力もない、むしろ母親が育てることが大切だ』
というのを観て少し落ち込んだことがある。
ところが2年ほど前こんな記事を読んだ↓
『母親より責任重大?父親が子育てすると発育にこんな影響が』
その中でも
『父親の育児が、子育てにいっそう影響を与えるそうで、母親より父親の育て方の方が根気があって精神力の強い子になるという研究結果が出ている』
『お父さんが育児に関わると、子どもは人の気持ちを分かってやれる人間になる』
『思春期を迎えるまでは母親だけで育児を乗り切ったとしても、思春期以降に自我を確立する段階で、父親不在が子どもの自我理想の発達を妨げる。』
なーるほど….
ということでまた子育てのモチベーションが少し上がったのである。
そもそも、こんな記事に振り回されている時点でだいぶチキンな父親なのは間違いない。
そして実は私自身が母親と一緒に過ごした日々の記憶があまりなく、父親・祖父母達に育ててもらったこともあり、母親が育てる子育ての見本も特になく不安の中で静かに泳いでいる毎日なんでしょう。
教育現場で見えてくる子育て
私は18歳以上の学生たちと向き合う教育現場で働いています。ある程度自我や人間性が整ってきている境界人後半とも言える子達で、将来の我が子だと思って向き合っています。
教育現場にいれば子育てのプロと思われたりすることもありますが、実はその逆だったりで色んなモノが見えるからこそ余計に子育てに対して不器用になったり臆病になったりすることもあります。
そんな中、10年くらい教えいている身としてすごく印象的なことは、昔の世代と違って今の子達は、大人の想像を遥かに超えて “受け身” であるということ、そして “権利を主張する” これは “ゆとり” や “いじめ” と一緒に育ってきたのも大きく影響しているのかな〜と感じます。
決して “受け身” や “権利の主張” 自体が悪いわけではなくて、今置かれた状況から、自分がやるべきこと・気づきを読み取れない(空気読みできない)子が多い割に、やるべきことができないけど自分の持っているべき権利は主張するという傾向が特に強い気がしています。
あとは時代の流れ(インターネットの普及や便利な機器)で必然的に受け身になるように育ってきているという風にも取れる気がします。
じゃぁ “受け身” や “ゆとり” が悪なのか? それも違うと思います、私は “ゆとり” という言葉で若者を括る風習がものすごく嫌いである、そもそも “ゆとり” なんて言う物は彼らが決めた事ではないし、ましてや『これだからゆとりは…』って言っている世代が作り出した産物なわけで、まったく無責任な話です(笑)
“受け身” や “ゆとり” は悪じゃない、1つの新しい文化だと思っています。
我々先に生きた世代が、この新しい文化としっかり向き合って、耳を傾けていかなければいけない時代が来ているのかもしれません。
子は親の鏡
学校で色んな子と向き合ってきた中、その子がどんな生い立ちで、どんな兄弟関係で、どんな友達付き合いをしてきて、もともとどんな性格なのかを話していく内、一つの要素として親御さんに目を向けると見えてくるモノもあったりしました。
『子は親の鏡』とはよく言ったもので、良くも悪くも『此の親にして此の子あり』というのは7割以上が当てはまり、私も日々勉強させられます。
その中でも『気配りが上手な子』『自立している子』『社会に出たら可愛がられるだろうな』と思う子は確かにいます。
そんな子の親御さんとお話しをする機会もあったりするのですが、共通していることが
・大前提で子供が好き(溺愛や過保護ではなく)
・支配ではなく子供と一緒に歩んでる(勉強している姿勢)
・親が子を信頼している故に子供が親を信頼している
・学校や先生に対しての接し方が『攻撃』ではなく『相談』
・家庭の子育て方針にブレがない
こんな共通点がありました。 こんな箇条書きですごく幸せそうなファミリーを想像してしまうかもしれませんが、意外にも親にどつかれたり、めちゃくちゃ親が怖い家もあったりするけど親子の絆がすごく強い家庭だったりします。
最近思う『先生はエライ』は大事なことかもしれない
昨今教師に蹴りを入れたりする胸が痛くなるようなニュースを見せられ、同じ職に就いている自分として『辛いな〜』と思いました。
もちろん私自身学生から蹴りを食らったことは1度もないし、過去に怒る(叱る)と怖かった人2位になったこともあるほど、学生は私が怖いらしい(笑)
そして私自身『私は先生だからエライ』なんて言うことはまったく思っていません、正直先生だとも思っていない節もちょっとありますが(^_^;)
ではなんでこんな言い方をするのかというと、子供の前で親が先生に対する態度としてそうであったほうが良いと言うことです。
もちろん世の中に『これはないだろ…』という教育現場の人間もいるし、学校側のありえない対応もたくさんありますが……でも例え親がそう思ったとしても、先生や学校をバカにしたり「アイツはおかしい」などという評価を子供の前ですること自体が『大人や組織を揶揄してもいいんだ』ということを潜在的に子供に植え付けている、そんな気がします。
誤解を恐れずに私なりの持論で多少極端な言い方をすると、昔の小学校時代のように多少理不尽でも廊下に立たせたりする先生がいた方が、子供なりに考えて自分のしたことがおかしいことなのか、そうでないことなのかを判断して自立してく可能性もあるんじゃないかなと思うこともあります。
暴力はいかんが、多少の理不尽で子供が騒ぐ前に親が騒ぎ立てる方がもっといかんとチキンながらに思っています。
ただ、最近は時代の変化を敏感に察知して対応できる学校と、昔のやり方を変えられない学校と両極端になってきたなとニュースを見ながら思うことが多くなりました、もっと深く考えると学校がいけないんじゃなくて、市や県の教育に対する問題だったりもするんですけどね。
スネ夫やジャイアンはグレない
上の話と同様ですが、スネ夫は金持ちの子(お坊ちゃま)、ジャイアンの親はすぐ殴る(虐待)、じゃぁこの2人は将来グレて人に迷惑をかける大人になってしまうのか….多分ならないと思う、むしろ
『あそこの子は金持ちで甘やかされているからろくな子に育たないよ』とか
『あそこの八百屋の母親は毎回殴ってて頭がおかしいわ』
という話しを子供の前でしている家庭の方がよっぽど危険だと思うわけです。
※もちろん子供が一枚上手で親を反面教師でみているケースもありますが。
じゃぁ結局 自分の子はどうすりゃいい…
話しは戻って、自分の子供はどうすりゃいいんだ….これに関しては私も日々 ”うちの子は大丈夫だろうか…” という不安の中で生きていて、わからないのが正直なところ、そもそも ”良い子” なんていう定義はそれぞれの家庭によって違うわけだし……
ただ1つわかってきたことと、未熟ながらそう信じたいことはある。
- 幼少期から愛情をたくさんあげること(かまってあげること)
- 話をよく聞いてあげること・微笑んであげること
- 自分の不安を押し殺してチャレンジする機会をなるべく与えること
- ダメなモノはダメ、ダメな理由をちゃんと教えること
- 良い行いや新しく発見したことは親も一緒にテンションを上げること
- なるべく色んな世代・人と交流を持たせてあげること
- 家族全員が色んな事に対してしたたかに生きること
です、っでこれがちゃんと自分でやってこれたかというと…これがまた微妙なところだし、やっぱりママの方が言葉で言い聞かせるのうまいし、毎日ちゃんと意識できているわけでもない(笑)
でも結局のところ大事なのは、家族でゆっくりひたむきに、我が家の育て方に “親がブレない” というところでしょうか、正しい子育ての意見や方法はたくさんあっても振り回されずに子供と接すること、それが今のところようやく絞り出した答えでした。
なので最初に私が色んな記事に振り回されることは最近減ってきました、
結局は私にしかできない、チキンなパパのやり方で子育てしていくしかないんだから(^_^;)
15年後の自分
15年後は下の子供が二十歳になる時、その時の自分はこんなに必死になって書いた記事を見てどう思うんだろうか…笑って『間違っていなかったよ』と言ってくれるだろうか。
とりとめもなく長い記事を、そしてちょっと不安でチキンな記事を読んでいただき、ありがとうございました。
これからも同じ時代に子育てできることを一緒に楽しみましょう(^^)/
チキンな父親の心の声
ある日、大きな声で我が子を怒鳴ってしまった
ある日、ニッコリ笑いながら夕暮れの道を散歩した
ある日、置き去りにしたくなるほど腹が立った
ある日、『ねー見てて!!』 の声に疲れて返事すらできなかった
ある日、お腹が痛くなるほど子供とふざけて笑った
ある日、怒りの末に手をあげてしまった
またある日、虐待のニュースを見て我が子を強く抱きしめたくなった
どんなに考えたって、どんなに頑張ったって不器用で散らかった子育てしかできない自分に自信をなくしてしまう
でも
それでいい
それでいいんだ
いつか我が子が大きくなった時 それが絆や愛になる
でも その答えは死ぬまでわからない
髪を切ることも忘れ
シワシワのシャツを着て
自分の時間がいつからなくなったのかも忘れた
こぼしたミルクをふき
お漏らしの服を洗い
垂れた鼻水をふいてやり
イヤイヤをなだめ
「早くしなさい!」と繰り返し….
身も心も疲れ果て….それでも仕事へ行き
泣きたいのはこっちだと思うこともある
毎日 毎日 毎日 毎日 いつ解けるかわからない問題集を抱えながら “我が子の未来” という不安と戦っている 模索しながら 葛藤しながら…
それでいい それが健全な親である
子育てのプロがテレビで正しいことを言っていた
テレビでイクメンが賞賛されていた
“○○○な子に育つ本”を手に取ってみた
でもあなたにとってそれが正解ではないかもしれない
それぞれの家庭のルールに正解も間違いもない
あなたのルール あなたのできること あなたの知っていることで子育てすればいい
“悪”は人の子育てをみんなで賛否する行為そのものだ
そんなことはどうでもいい…
我が子が助けを求め 最後にその手をつかんでやれるのは
自分のやり方で愛情をそそいできた あなた自身なのだから
一生懸命子育てしているあなたを 我が子はその目でしっかり見ている そして遠回りしながら 曲がりくねりながら まっすぐな子が育っていく
ただひたむきに 自然に 我が子と向き合えばいい
それはきっと間違っていない
そして 今日帰ったら たった1分だけでも 子供を強く抱きしめてあげればいい
たった5分でもいいから ちゃんと目を見て 話しを聞いてあげればいい
その時間が子供にとって一生忘れない1番幸せな場所になるから
きっと僕は大人たちにそう育てられたんだろう、小さい時にいなくなった母親にそう育てられたのだろう。
コメント
愛とは臆病になることかもしれませんね
ichi様(^-^) そうですね、愛って不思議ですね。
愛するがゆえに今までできたこともできなくなったり、ふとした隙間から崩れてしまうこともあったり、本当はものすごく大事にしないといけないモノなんだけど日常がそれを忘れさせたり(^-^)